道徳ってルール守れ、仲良くしよう、を習う授業でしょ?でも今は違うんです

読解力・表現力

まだ定義が固まっていない、謎の授業。それが道徳。だから誰も答えられない。

道徳ってルールを守れ、仲良くしよう、人に迷惑をかけない。そういうことを習う授業でしょ?

多くの人が、そう思っていると思います。私もそう思っていました。でも今回、色々と調べてみたら、どうやら全然違うんです。何がどう違うのか、解説していきます。

まず、道徳って「評価される」んです

これ、知らない人多いんじゃないでしょうか。今の道徳、成績がつきます。ただし、テストの点数のような数値ではなく、記述式の評価です。

実はこれ、2018年に変わったばかりのことなんです。それまでは、道徳は「教科外活動」という扱いで、教科書もなければ、評価もされていませんでした。それが今は、れっきとした「特別の教科」になっています。数値化しない理由は、考え方や感じ方に、正解・不正解をつけるべきではないという理念があるからだそうです。

評価があいまいだから、真剣に受けにくいのかもしれない

ここまで見てきて、一つの仮説にたどり着きました。評価の基準があいまいだからこそ、生徒側も、あまり真剣に授業を受けなくなるのではないかということです。

テストで点数がつく教科であれば、「頑張れば結果が出る」という分かりやすい動機があります。ですが道徳は、良い評価をもらうために何をすればいいのか、生徒自身にもはっきり見えません。「先生の求める答えを言えば、なんとなく評価されそう」という、あいまいな空気だけが残ってしまう。私が受けた「答えの誘導」的な授業も、もしかしたらこの構造そのものだったのかもしれません。

私の時代の道徳、正直「答えの誘導」でした

ここで、私自身の話をさせてください。40年近く前、大阪府の小中学校に通っていた私は、『にんげん』という副読本を使っていました。

調べてみると、これは大阪府独自の同和教育副読本で、1970年から配布されていたものでした。小学校では学年ごとに1冊、中学校で1冊。入学から卒業まで、全7冊を受け取るという制度だったようです。差別や戦争反対といった、重いテーマが中心でした。

当時の授業の記憶、正直に言うと「先生の求める答えを言えば正解」という空気があったと思います。考えさせられるというより、答えに誘導されていた感覚の方が強く残っています。ちなみにこの『にんげん』、2008年度をもって無償配布が終了しています。今の子どもたちは、私が受けたのと同じ道徳教育を、もう受けていません。

実はこの「答えの誘導」問題、教育の世界でも問題視されていました

「先生の求める答えを言えば正解」という授業展開、実は教育の現場でも、長年「白々しい授業展開」として問題視されてきたそうです。この構造を象徴する教材があります。「星野君の二塁打」という話、聞いたことありますか?

1947年に書かれた児童小説で、50年以上、道徳の定番教材として使われ続けてきた話です。あらすじはこうです。大会出場をかけた大事な試合、同点で迎えた最終回。バッターは星野君に回ってきます。監督が出したサインはバント。しかし、絶好球が来たと感じた星野君は、指示に背いてバットを振り、二塁打を放ちます。この一打でチームは勝利し、大会出場が決まります。ですが翌日、監督は星野君を呼び出し、指示に従わなかったことを咎め、次の試合への出場を禁止します。

結果を出したのに、なぜ怒られるのか。多くの人が最初に抱く疑問だと思います。この「結果と、規則を守ることのどちらが正しいのか」という問いこそが、この教材が長年使われてきた理由でした。ただ、教科書の流れでいくと、「規則は守るべき」という結論に、なんとなく誘導されるようになっていたそうです。

ところがこの教材、2024年に教科書から消えました

実はこの「星野君の二塁打」、2024年春から使われる小学校の教科書から、正式に姿を消しています。それまで掲載していた東京書籍・廣済堂あかつき・学校図書の3社が、いずれも掲載を見送ったからです。

背景には、2018年の日大アメフト部の悪質タックル問題があります。「監督への服従を求める内容だ」という批判が改めて強まったことがきっかけでした。識者は「子ども自らが考えることが重視される時代、監督の指示への服従を求める古さが浮かび上がった結果」と分析しています。野球のルール自体を知らない子どもが増えたことも、影響したそうです。

一方で、児童文学を研究する専門家の中には、「テーマ自体には価値があり、なぜ不採用になったのかを問いかける教材として、補助的に活用する道もあるのでは」という意見もあります。正解が一つに決まらない、まさに「考え、議論する道徳」にぴったりの教材だったのに、消えてしまったというのは、なんだか皮肉な話です。

解剖学者・養老孟司さんも指摘する、道徳教育の「不自然さ」

ここまで見てきた「答えの誘導」問題、実は著名な専門家からも指摘されています。解剖学者で『バカの壁』の著者としても知られる養老孟司さんは、高橋秀実氏の著書『道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか』の書評の中で、現在の学校教育で行われている「言葉だけで教科書的に教える道徳」の不自然さや形式主義を、鋭く批評しています。

言葉で説明すればするほど、かえって本質から離れてしまう。これは、日本の社会のあり方そのものと直結している問題だと、養老さんは指摘しているそうです。私自身が受けた『にんげん』の授業も、「星野君の二塁打」のような教材も、まさにこの「言葉だけで教える道徳」の不自然さを、そのまま体現していたのかもしれません。

つまり、今の道徳はこう変わっている

ここまでをまとめると、道徳の授業は、こう変わってきています。

  • :「規則を守れ」「仲良くしよう」という結論に、答えを誘導される授業
  • :「答えが一つではない道徳的な課題を、自分自身の問題として捉え向き合う」授業

今の授業スタイルは、話し合いや役割演技(ロールプレイ)が中心になっているそうです。教師が正解を提示するのではなく、子どもたち自身が、多角的に議論することが目指されています。

ただし、完全に変わったとは言い切れない

正直にお伝えすると、この転換は、まだ完全ではないようです。文部科学省の最新調査でも、「教科書に頼る傾向が見受けられる」という課題が指摘されています。「考え、議論する道徳」を目指しながらも、現場ではまだ試行錯誤が続いているのが実情のようです。

実は、これからの時代の「羅針盤」になる科目かもしれない

ここまで「謎の科目」として道徳を見てきましたが、実はこの科目、これからの時代にこそ重要になる、という動きがあります。

文部科学省は、生成AIの普及やSNS利用の低年齢化を受けて、2030年度から実施予定の次期学習指導要領で、AI時代に求められる人間としての価値判断や責任、生き方について考えを深める道徳を目指す方針を示しています。

学習例として挙がっているのは、こんなテーマです。

  • 誹謗中傷はいけないと分かっていながらも、やめられない心の弱さについて議論する
  • 不確かな情報の拡散など、正誤が単純には判断しにくい問いと向き合う
  • 何のために、どこまでAIを利用するかを考える

SNSトラブルやAIとの向き合い方は、まさに白黒つけられないジレンマの宝庫です。正解のない問いに向き合い、自分の考えを言語化し、他者の多様な価値観を理解する。この力こそが、デマやフェイクに流されず、これからの社会を生き抜くための「心の基礎力」になるとされています。

「規則を守れ」「仲良くしよう」を習うだけの、謎の科目だと思っていた道徳。それが実は、生きづらい時代を乗り越えるための羅針盤になろうとしている。そう考えると、ちょっと真剣に、この科目のことを知りたくなってきませんか。

まとめ

  • 今の道徳は、記述式で「評価される」教科になっている。これは2018年からの変化
  • 評価の基準があいまいだからこそ、生徒が真剣に取り組みにくい構造がある
  • 私自身が受けた道徳教育(大阪府の『にんげん』)は、答えを誘導される感覚が強かった
  • 「星野君の二塁打」は、規則の遵守を象徴する定番教材だったが、2024年春の教科書から正式に消えた
  • 解剖学者の養老孟司さんも、「言葉だけで教える道徳」の不自然さを指摘している
  • 今の道徳は「考え、議論する」授業への転換が目指されているが、現場ではまだ試行錯誤が続いている
  • AI・SNS時代を生き抜く「心の基礎力」として、道徳が改めて重要視され始めている

アセラズ、クサラズ、アキラメズ。

「道徳=答えを教わる授業」だと思っていたら、実は「答えを自分で見つける授業」に変わっていました。皆さんの記憶にある道徳の授業は、どんな内容でしたか?

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